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P&E 2007 講評
group B(立体・インスタレーション)
◎加藤義夫 (インディペンデント・キュレーター)
会場入口近く、天上から吊り下げられたポリエステル樹脂で成形された豚二頭。ホンモノよりひとまわり大きい豚のオブジェ。小野養豚んさんの作品「un10」だ。食料用豚の生産工程の終焉を表現している。命という生命をいただくことで、繁栄している人類に対する警告でもある。私達、現代人が持つ生命に対する尊厳とは裏腹に、日常的に口にする動植物の食品加工品には、地球上の命が人類を生かしているという認識を即す。彼女の作品の背景には、小野養豚場の娘として育ったという現実が説得力を持っていた。
ティーポットやカップ、皿などを左右対称にカッティングして床に並べられた岸本真之さんのインスタレーション「a view with dishes」は、一見、ドイツの照明デザイナー、インゴ・マウラーのオリジナル1点ものの照明器具を彷彿させた。しかし、彼の作品はマウラーとは全く異なったイメージを持つものだ。生命が朽ちて行くはかなさをイメージし表現した静物(ティーポットやカップ、皿)を、解体させ床に置くことで、素材は同一でも全く違った世界を創出させるという試みが感じられる作品だ。
机上で倒れたコップから液体らしきものがドロリとこぼれ出し、時間と共に徐々に液体が机の上を広がっていく様子がうかがえる。その液体に蟻たち群がる。釜本幸治さんの作品は、立体でありながら絵画のようなイメージを抱かせる。それは夢でみた光景か、はたまたサルバドール・ダリの絵画を思わせるからだろうか。「コップ」と「液体」、「蟻」というキーワードが創るシュールな世界がそこにあった。
元吉礼子さんと水木塁さんの作品には共通するモチーフがある。それは蝶だ。シルバーを加工した元吉さんの蝶は、ひらひらと飛びまわる情報を意味するが、水木さんの蝶は、何十匹という妖艶な蝶たちが空中で戯れる姿から空気や光の揺らぎを感じさせる。どちらも、はかなさの象徴なのかもしれない。そのはかなさは水木さんの場合、宇宙や地球の生命体への始源へと向かう。作品「Nitro #2」とは、宇宙の構造と南国奥地に生息する極彩色のカエルの接写画像をだぶらしたダブルイメージにより、ミニマムとマキシマムの世界を一枚の平面作品の中に封じ込めた。
ミニマムからマキシマムということで考えれば、城戸みゆきさんの作品「N家書庫と祖母の話」は、和紙を漉いて創った立体の構造物だ。中世のお城や教会のような建築物を思わせる立体オブジェは、俯瞰して観てみるとアニメーション作家「宮崎駿の世界」。壮大な自然や宇宙への広がりを感じさせるオブジェの建物にドアスコープが付いて、そこから覗く世界は、極小の世界でもある。
テキスタイル&ファイバー系の作家、田中章子さんのインスタレーション作品は、ぬいぐるみを組み合わせで増殖する生命体を表現しながら、連綿と繰り返されてきた生命の連鎖を感じさせる。また一方、井上唯さんの作品「空のうつわ」は、和紙を織り込んだ透明性のある織物を空間に展示することで、光と空気の動きよって美しい豊かな表情を創り出す作品だが、プレゼンテーションは成功しているとは言えないのが残念だ。会場の展示条件を整えて、グループ展でなく個展で見せるべき作家だと感じた。
夏池風冴さんの漆パネル作品「外側のための図」や立体作品は、客観的存在に対する常識的な見解を疑うことから出発している。かなり観念的な作品であり、彼女が意図している視覚芸術とは何なのかは伝わりにくいが、計算された美しさを持っている。
井上大輔さんのインスタレーションは、氷を素材として時間と価値の変換を表現したようなものだと感じた。自然の摂理として、常温で氷は固体から液体に変容し蒸発することで気体へと変わる。時間の介入とともに、同一元素が形を変えて行く姿は、私達に環境と時間によって価値が変換されることを教えてくれる作品だ。
鈴木隆幸さんの作品は、山の写真と大地に転がる石であるが、写真と石とは無関係だと聞く。プレゼンテーションとして作品に誤解をいだかせるので問題がある。イギリスのランドアート系の作品に見間違えてしまうのも展示の仕方にあるようだった。作品をひとつに絞り込んで見せることで、もっと見えてくるものがあるようだ。
TANISHIこと谷口悟司さんの作品の、白くペイントされた3本の木と木に埋込まれているか貼付けてあるブロンズとの組み合わせ彫刻「haunt」は、木とブロンズのミスマッチが気になった。
◎山本淳夫(滋賀県立近代美術館 学芸員)
事前に準備のしようもなく、白紙の状態で臨むしかなかったのだが、それぞれの作品と向き合ううちに自分なりの物差しができていく感覚が面白かった。
1.表現が「自分探し」の次元から脱しているか。
2.作品が一定水準に達しているとして、場当たり的な一過性のものだったり、逆にその「効果」にとらわれ過ぎていないか(作家としての立ち位置がつかめているか)。
ざっとこんな感じである。第1段階についてはほぼ全員がクリアできており、展覧会全体にそれなりの見応えをもたらしていたように思う。問題は第2段階なのだが、私見では確実にこのレベルに到達していたのは2名である。
まずはレディ・メイドの白い陶器(ポットやカップ、ソーサーなど)を切断し、規則的に再構成した岸本真之。日用品としてのコードと、意味をはく奪されたオブジェ性とのあいだで作品は宙吊りとなり、断片化された各パーツの滑らかなテクスチャーがやけに官能的に意識される等、みるものの感覚が奇妙な揺さぶりを受ける。出品作ではないが、コンピューター解析された人体の運動の軌跡を三次元的なマッスとして表現したものなど、一癖ある造形感覚がどの作品にも通底していて、立体作家としての充分な基礎体力を感じさせた。
もうひとりの井上大輔については、DMに掲載された作品図版が当方の知る他作家のものと似ていたので、実はあまり期待していなかったのだが「百聞は一見にしかず」である。アクリル性のごく浅いトレイに吸水ポリマーを敷き詰め、その上に巨大な氷の塊を放置する、という極めてシンプルな作品で、酷暑のせいか設置から三日目にして氷はほとんど消えうせ、水分を吸収して膨張したポリマーでトレイは満たされていた。物質の変移の相をみせるという点で'70年代を連想させる既視感を指摘される場合もあるかもしれない。が、ポートフォリオの他作品にも共通していえるのだが、物質存在の重苦しさよりも、若い世代ならではの感覚的な鋭さが際立っている点に注目したい。青白い光をはらんだ存在感は何やら退廃的な美意識すら感じさせ、作家の体質と響きあっていたと思う。
最後に、現場できちんと伝えられなかったことをフォローしておきたい。要するにP&Eはあくまでも通過点に過ぎない。作品なり作家に対してある判断が下される。それで「はい、おしまい」では決してないのである。何かと「向き合う」ことは、確実にある経験値となってその人に蓄積される、そのことはアーティストも評者もなんら変わらない。ここで得られた経験を「次にどう活かすか」がお互い勝負どころなのだ。ふたたびどこかで、互いにひとまわり大きくなった状態で再会するのを楽しみにする次第である。

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