P&E 2007 講評

group A
(絵画・平面作品)

◎加藤義夫 (インディペンデント・キュレーター)

 アートコートギャラリーの建築空間を考慮し、うまく利用して、サイトスペシフィックな展示を効果的にプレゼンテーションしていたのが秦雅文さんのインスタレーション「ブランドみたいな『わ』でどう」だ。中庭が望める全面ガラス張りの展示室に、壁には絵画をガラス面には絵画と同一のイメージを持つ「わ」というひらがなを反転させたロゴマーク。「わ」をシンメトリーに扱うことでタイポグラフィのようにも感じさせながら、ファッションブランドのロゴマークのようなイメージを創造していた。秦は「ブランドに群がる人の心理も、人と仲良く価値を共感していたいのだと思います。街に次々と出現する大型高級ブランドショップのファサードのイメージを創り、価値観について考えたい」と記述している。ファッションブランドのエルメスは、生産された全製品の30%を、ルイヴィトンにいたっては、70%を日本だけで消費されていると、故・山口小夜子さんから聞いた。彼は本展で日本人が持つ価値観について、またファションブランドという価値について考える場を提供したといえよう。ブランドに群がる日本人に対する皮肉を込めた作品でもある。人それぞれ個々の価値観を確立していない日本人への批判でもあり、日本社会そのものへの問題提起である。

 吉田真理さんの絵画「ある子供達」は、FAXの感熱紙に記された情報が時間と共に徐々に消え去るような作品で、薄ぼけた人々のイメージは、遥か彼方の過去の記憶の痕跡ともいえる。現段階では、良いのか悪いのかを判断しにくい作品であったが、気にかかる、心に引っかかる絵画であるには違いない。それは、観る者にとって今までにない不思議なイメージを与えているからだ。

 松川はりさんの絵画「拡張する意識」は、ほんの数時間、記憶を失う体験を通して彼女がアナザーワールドへの旅へと誘ってくれるものだ。意識と無意識の間に存在する浮遊するような世界を描く。彼女なりの世界観とスタイルは、安定し確立しているようだ。

 アメリカ人のマイケルJ.ミグリアーチさんの映像と絵画「The Digital Age」を並列させた作品は、絵画が彼の日本の印象を語った作品であるのに対して、映像は20世紀のアメリカ戦争史のようでもあり、矩形のモザイク模様と記録フィルムとの画面構成と展開が、これまで隠蔽されてきた戦争の歴史を物語って非常に興味深い。

 勝正光さんのワトソン紙を鉛筆のみで真っ黒に塗りつぶして行く作品「鉛筆か何か」、田中幹さんのスタンプを綿布に繰り返し、繰り返し押し続ける作品「Stamp Work-007」、井川優子さんの小さな離島地形図の等高線を太陽光線で一点一点焼きながらなぞったイギリスのロジャー・アクリング風作品「栄螺島」、立野陽子さんの自然を形づくるものが連鎖していくイメージを描く「forest」。これらの作品は、彼、彼女らの美意識と美学に貫かれ、時間を作品に取り込みながら、ある聖なる空間を創出させている美しい作品だった。

 細田聡子さんの絵画「2007.8_3」は、描く対象やイメージを持たずに描かれた作品という本人からの解説があったが、彼女の使う色は日本固有の色彩が多く、日本の風景を観る者に想像させる。

 吉田宜代さんの作品「ひつじが見た夢」は、版画作品を拡大したイメージを持つ大作で、総天然色オールカラーの白昼夢を観る者にも感じさせてくれる力を持つ作品だった。

 岸本幸三さんの山の痕跡を記号化した絵画「mountainous-traces」は、いわゆる「ルビンのツボ」のように画面の地と図が反転することで、山脈とは違ったイメージを観る者に与える。眼の不思議、錯覚による新しいイメージの創出を感じさせた。

 笹田晋平さんの釈迦と鮭をかけたシャレ絵画「シャケ涅槃図」は、優れた描写力を持つ。さらに、このシャレ絵画が説得力を持つには、持続力と作品量がモノを言う。今後のさらなる展開を期待したい。

◎奥村泰彦 (和歌山県立近代美術館 学芸員)

プレゼンテーションを経て作家が選ばれているということは、作家自身が予め自作を客観視する機会を持っているということである。作家にも作品にも、批評性といったものが求められるのだ。それは、自分の創作活動の理由にまで立ち返って、それがどのような方法で作品に結実しているのか説明を要求されるということであり、作家としての制作を前進させる契機になるだろう。

ただ、自明なものとして絵画に対する作家がほとんどであり、「なぜ絵画か」といった問題意識の希薄さが印象に残った。絵画の「復権」が喧伝された頃に生まれた世代が大半を占めるせいなのか。それ以上に、予め作品の完成像を思い描くことなく制作を行っていると、作家の何人かが口にしたことも印象に残っている。さりとて偶然性に完成をゆだねるという制作方法でもなく、作者として画面を作り上げるという意識もまたはっきりしている。絵画は、そこで実現される像であるよりは、像がかもし出す印象ととらえられているようだ。立野陽子、細田聡子、吉田宜代、吉田真里、松川はりらの作品に、そのようなおもむきが強く感じられた。マイケル・J・ミグリアーチの作品を参照して考えるなら、既成の画像があふれる状態で、画家はむしろイメージの完成に奉仕することを拒否するべきなのかもしれない。それは、行為の反復や集積として画面を生み出している勝正光や田中幹、井川優子らに取っても同様で、結果としての素材の物質性に立脚するのとは違う方向を模索しているようだ。山の稜線という既成の形象の組み合わせから画面を構成した岸本幸三、駄洒落を大まじめな画面に描いた笹田晋平らにむしろ、絵画という形式に対する批評がひそんでいる。とはいえ、批評性の発露としてプレゼンテーションから最も効果的な展示を行ったのは、秦雅文であった。日本人のブランド信仰に対する批評的な作品でありながら、実は抽象的な絵画作品の制作も続けている作家本人に対する批評でもあるという、他に無い複雑な位置を占める作品だった。

ところで筆者は、作家自身からのプレゼンテーションを受けて選抜が行われ、選ばれた作家による展示ができた段階で、初めて各作家の作品に対面した。このような展覧会の作られ方は、一般的なコンクールとも、様々なグループ展とも異なっている。主催者であるアートコートギャラリーによる選抜と組み合わせ、展示という作業は、キュレーションと呼ぶべきもので、各作家の作品は、個展も含めて他の展覧会におけるよりも、批評的な吟味を経た上で提示されている。作家にとっては、これまでにない視点から自作に対する機会である一方、観客にとっては既に何らかの位置づけないし文脈に沿って作品を見ることができたのではないか。ただ、それゆえに作品がより良く見える展示が行われていたことを、作家各人は忘れずにおいていただきたい。